旅では限られた情報の中から如何にそれを素早く吟味して自分の行動に結びつけるかという能力が試される。情報は出所(人の噂なのか記事なのか)、鮮度(いつの情報か)、根拠(どんな裏づけデータがあるのか)、などによって信頼度が決まってくる。
インターネット百科事典Wikipedia日本版のウユニ塩湖の説明の中にこんな文章を見つけた。
“塩原内の旅行は一般の自家用車では不可能と考えた方がよい。そもそも、見渡す限り真っ白で、目印は遠くに見える山と地元の人がつけたタイヤの道標くらいしかないので、地元観光業者の運転にまかせないと極めて危険である。”
この文章を投稿した人は自分の車で危険に会ったのだろうか。この情報を鵜呑みにするならばバイク一人旅の僕はありえないことになる。確かに雨季は2WDの車や僕と違って良識のあるライダーは止めた方がいいかもしれない。でも乾いていれば誰でも行ける。太陽と山があれば方向は分かるし、そもそも道など無いのだから“道”に迷う心配もない。
僕の場合は知らない人の運転するツアー旅行の車に乗る方が余程不安だ。飛行機など動かし方を知らないものは仕方ないけれど、出来ることなら自分の命は自分の制御の範囲内に留めておきたいといつも思う。だからもし僕が投稿するならこう書くかもしれない“塩原内を自分の車やバイク、自転車で旅行すれば、好きな時に好きなところでキャンプが出来て最高でしょう。もしそんな旅に興味があるならば試して見るのも面白いかもしれない。”と。
しかし具体的な数字は別として情報と言うものには正解が無い。見るものがそれをどう捕らえるかによっても信頼度は変わる。
一方で行動の結果というのは情報分析とは無関係に表れる事も多い。
帰国後の5月、ウユニ塩湖の湖上でツアー客のランドクルーザー同士が正面衝突して双方の客、イスラエル人グループと日本人グループを含む13人が亡くなったという新聞記事を見た。こんなところで衝突事故を起こす確立は天文学的に低い。それでも事故は起きる。
僕の旅は成功したからフランス人達に祝福されたけれど、もしどこかで事故でも起こしていれば“安全性の検証”の大好きな日本人には“計画に無理があったのではないか”と言われるかもしれない。結果は粛々と受け止めるだけだ。
どんな情報からどんな行動をしてどんな結果を得ようとも、その過程に自らの思考と意思が込められていてリスクと責任を自分で持つならば、何でも自由だと思う。