報告書 (ロシア事情報告書より抜粋)


今回のイタリアから静岡まで54日間、17880Kmの旅行のうち、1ヶ月強の短い間ではありますがロシア国内で気が付いた点を項目ごとに簡単にまとめてみました。ロシアにも負けず劣らずヨーロッパ特に北欧フィンランドについての思い出もたくさんありますが、ヨーロッパ事情はテレビ、新聞等で報道されていることもあるので今回は省略しました。皆さんご存知の様にどこへ行ってもモーターサイクル天国であること、飯は最高にうまかったこと、人々の笑顔は皆温かく素晴らしかったことだけまずはお伝えしておきます。


目次
 モーターサイクル事情
 車事情、道路事情
 ガソリン事情
 自転車事情
 地下鉄事情
 シベリア鉄道事情
 路面電車事情
 タクシー事情
 フェリー事情
 飛行機事情
 言葉
 食糧事情
 宿泊事情、住居事情
 治安について、交通警察について
 軍隊について
 経済、産業について
 感想(間瀬、山本)

モーターサイクル事情

   モーターサイクルは労働者、特に農作業者の足として主に田舎で見ることが出来るが、数自体はヨーロッパや日本に比べ極端に少ない。それらはほとんどが20年以上前に作られたと思われる旧ソ連製、ヨーロッパ車のコピーバイクのドニエプル、ウラルといったメーカーのものである。大半がサイドカーを付けている。ライダー層は主に中高年の男性でジェットヘルメット又は古めかしいフルフェイスを被っている。ゴーグルは付けていないことが多い。ど田舎の少年達はノーヘル、ナンバー無しで乗っているが、交通警察に見つかると没収されるらしい。

   サンクトペテルブルグ(旧レニングラード)、モスクワなど大都市にはホンダCBR1000、GL1500,ヤマハTDM850等最新の外車に乗る金持ちも僅かながらいる。しかし彼らは走りを楽しむと言うよりはむしろ街中で民衆の目を引くための道具と見なしているように思える。不思議なことに彼らはノーヘル、ナンバー無しでも、金の威力か、捕まらないようだ。我々のTT600Eでもそうであったように、彼らもまた止まる先々で黒山の人だかりに囲まれスーパーヒーローになることは疑う余地がない。そして走行中も、振り返らない人はいないであろう。我々は老若男女問わず星の数ほどの人を振り向かせ、彼等に楽しみを、喜びを、驚きを、夢を、そして時には失望を与えたと思う。

   モーターサイクルショップはほとんど見あたらない。ペテルブルグで新車のウラルを2台置いてある店を1軒、ウラジオストクで日本の中古スクーターを並べる店を1軒見かけただけである。ちなみにヤマハチャンプが何と5万円で売られていた。

   庶民の収入の低さ、冬が長いこと、金持ちはいるが本来の楽しみが理解されていないこと、アパート暮らしの庶民にはガレージが無いこと、盗難の危険度が非常に高いこと、都市の空気が汚いこと、そして何より社会主義下に於ける流通の悪さ、等の理由から現在のロシアでは東南アジアの様な爆発的な普及は望めないであろう。しかし他の国に比べ人口の割に極端に台数が少ないこと、現在走っている古いモーターサイクルの買い換え需要、ロシアが将来分割され開放的な市場が生まれた時などを考慮すると市場の可能性はゼロとは言えない。特に注目すべきは、極東に合法非合法で日本の中古4輪車が流れるルートが確立されていることで、彼らが望む限りこのルートに2輪車を載せることは容易である。日本の中古車、家電があふれる極東では、次に2輪が普及しても不思議ではないだろう。

車事情,道路事情

ロシアの3大ひどいものはトイレ、交通警察(ガイ)、そして道路と言われている。ロシア国内走行約1万2千Kmのうち約2千Kmは未舗装路。普通の車では不可能な、シベリアの道路のない区間、極東やオムスクのほこりのひどい悪路は言うまでもないが、舗装路もなかなかあなどれない。街中ではマンホールに蓋がなかったり、郊外でも突然タイヤがすっぽり落っこちてしまうような穴が度々現れるからだ。ソ連時代には壊れる度に補修されていた道路も今は壊れるままの所も多いらしい。しかし信号もなく交通量も少ないので、平均時速はおおむね120〜150Km/hで、1日800Km走るのも苦痛ではない。

   車はモーターサイクル同様に二昔前のソ連製と最新の西側製が入り混じっている。特色別に分類するとロシアを大きく4つの地域に分類することが出来る。

 1. サンクトペテルブルグ〜オムスク以西

   オムスクより東には400Kmに及ぶほこりの酷いダートが続き、東西の交通はここで分断されている。この地域にはラダやボルガなど旧ソ連を代表する車や名も知れぬ2サイクルエンジンの車、空冷リアエンジンの車また東欧の時代遅れな車などが多く見られる。濃緑色の軍用車(払い下げで民間人が乗っていることも多い)もたくさん走っている。これらの車を識別するのは非常に簡単である。その古めかしいデザインもそうであるが、後ろを走っていると76オクタンの有鉛ガスを使用するため、排気ガスですぐに気持ち悪くなるからである。今日もロシアのいくつかのメーカーは新車を生産しているが、モデルチェンジはほとんど行われておらず、ペレストロイカ以降西側の車が入り易くなったためか売れ行きは鈍いようだ。しかし大衆車は日本円で80万円ほどなので依然として庶民には最も手に届きやすい存在かもしれない。ロシアを代表する高級車ボルガは今は西側の高級車に押されあまり新しい年式のものは見かけられない。これらの車は年式の古さや品質の悪さから当然故障も多く、路肩でボンネットを開けているのは日常的な風景である。興味深いのは、幹線道沿いには車の下に潜り込めるような修理スペースがたくさんあり、その道路標識まであることである。当然その利用度も高い。車の量、故障車の多さから考えると車屋や修理工場がたくさんあってもいいように思うが、バイク屋同様あまり見かけることはなかった。よって部品の調達も至難の業である。

   金持ちの嗜好は非常に判りやすい。一目でそれと判る西側の高級車に乗っているからである。ベンツなら600シリーズ、BMWなら7シリーズ、トヨタならレクサスブランドといった具合である。彼らに等しく言えるのは運転マナーの悪さで、右から左から追い越しをかけてくる。フィンランド国境にはロシアの運び屋と思われる者達によって高級車が運ばれてくるが、その運転はヨーロッパ人の規律正しさと比べると怒りを覚えるほどである。

   西側の車も増えているようだが、この地域ではロシア製が依然として多い。従って都市部の空気の汚さは容易に想像がつくであろう。

2. オムスク以東〜チタ

   シベリアのチタより東200Kmほど走ると地図にも道路がのっていない区間が400Kmほど続く。よってここでも交通は分断されている。オムスクからダートを400Kmほど走りノボシビルスクに入ると日本車の多さに驚かされる。数えたわけではないが、半分位は占めているだろう。それまでの日本車はヨーロッパから持ち込まれた左ハンドルの高級車が多かったが、この地域は右ハンドルの日本の中古車ばかりである。それも大衆車、商用車、トラックまで様々である。年式はさほど古くはなくペレストロイカ以降のもので4、5年落ち位のものはざらである。商用車は横に漢字等が書いて有るもの、例えば東急電鉄、岩本電気株式会社とかJAFなど、が悠々と走っている。東へ進むにつれ4,5台から10台位の日本車の編隊とすれ違うことが多くなる。ヘッドライトやバンパーを跳ね石から守るためにテープなどで保護しているので一目で売り物とわかる。極東のウラジオストクから陸路、途中道路がない区間は鉄道に載せ運ばれてきたものだ。ドライバー達は雇われ人で鉄道区間を挟んで二つのグループによって運ばれる。鉄道より人件費の方が安いため人によって運ばれる。昼夜運転するため2名乗車のことも多い。車は圧倒的にトヨタ車が多く、先代のマーク2シリーズ、カムリ、ランクルなどが人気のようだ。背後にマフィアが関与していること、日本側にも暴力団等の組織があることは新聞でも紹介されている事実である。静岡新聞9/14によれば、マフィア側から車種や装備の注文もあるそうである。

3. シベリア道路無し区間 (現在はシベリア横断道路が開通している)

   シベリアの道路無し区間には実際は‘みち’が存在する。しかしある時は川渡り、あるときは田んぼの様な湿地帯、そして獣道、線路の上、酷い凸凹道等々の連続で、普通車はもちろんのこと、普通のクロカン4WD車にも絶対通行不可能である。2輪車であれば深い川や湿地帯はシベリア鉄道の線路の上を走ることで避けることが可能であるが、貨物列車を含め意外と頻繁に列車の往来がある為、鉄橋の上や線路脇が藪や崖で対向列車を避けられない場所も多く危険であり、枕木の上は振動が多く人間にもマシンにも過酷である。最適な走行条件は3速60Km/hで、フロントタイヤ、リアタイヤ、エンジン振動、それぞれの周波数成分が打ち消し合うので振動はほとんど感じられなくなる。しかしこのスピードだと滑りやすい枕木の上でブレーキが利かず、線路のポイントを通過するときなどはパニックになる。我々は20Kmほど線路上走行を余儀なくされた。ここは天井にエアダクトを付けたスペシャルトラックや無限軌道車等に限られた聖域である。但し川の凍る冬季には一般車も川の上を走るそうである。ガソリンはまず手に入らないのでそれなりの準備が必要である。我々は3人で188リットルのガソリンを積んでいたがそれでも足りず、間瀬車クラッチ損傷、湿地帯、首まで埋まる泥沼や川、線路の上を走るリスクの大きさなどの理由により我々は残念ながら一部区間をシベリア鉄道の郵便列車を利用している。但しこれは合法的ではなく鉄道公安に見つかるとやばいことになる可能性もあり、又、貨車のデッキは非常に高くバイクを載せるのは困難であること、短い停車時間に素早く車掌と交渉する能力、会話力を必要とする為、あまりお勧めは出来ない。チャレンジするにはそれなりの覚悟と十分な装備の検討が必要である。

   現在この区間ではシベリア横断道路の大規模な建設が進められている。しかしロシアの資金力技術力では難しいのか、しばらくは完成しそうにない気配であった。これが完成した暁にはロシアが東西全て道路でつながることになりシベリア鉄道に依存した流通も大きく変わるであろう。ロシアにとって非常に重要な事業だと言える。余談だが、以前日本政府がシベリア横断道路の無償建設と引き替えにシベリアで将来開発されるであろう資源の利益を求めた事があったそうだが、ロシア側がこれを断った経緯があるらしい。ロシア完全横断が技術的にも冒険と言えるのは、この道路が開通するまでである。

4. シマノフスク〜ウラジオストク

   再びアスファルトの道とガソリンにありつける。ロシア中央部よりさらに日本の中古車の割合が増す。かつての軍港の街、今は日本製品などの陸揚げ港といった感のある大都市ウラジオストクでは、実際に200台の車を数えたところ99%が日本車であった。車だけを眺めていると日本にいるような錯覚におちいる。問題なのはロシアは右側通行であることで、現在、極東だけ左側通行にするよう政府に働きかけているようである。やはり車の年式は新しく、ペレストロイカ当初4,5万円のポンコツが輸入されたのは過去の話である。日本の中古車屋に並べてあるものと同等の年式のものが主流である。おかしなことに特選中古車フェアと書かれたのぼりのある車屋も見られた。この地域でもやはり車のマナーは悪い。中国などと同じく強いものが優先される。人は車をよけて歩かねばならない。又やはり高級車に乗る人が一番始末が悪い。この地域でソ連製に乗る人は日本車ビジネスに乗り遅れた共産党員か何かだろうか。

   ハバロフスクの銀行の中で次のような張り紙を見た。“4泊5日 960$ あなたも日本へ中古車を買いに行きませんか。”これは情報によると次のような仕組みであろうと思われる。張り紙を見た市民がマフィアに金を払うとマフィアが船員手帳を彼らに渡しビザ無し渡航する。船員には4日間のビザ無し滞在と2台までの車の持ち出しが許されているのである。実際に我々が乗船した新潟、富山行きの客船には乗客26名に対し乗員と称する人は80名以上おり、ウラジオへは76台の車を載せて帰ったそうである。

   この地域は比較的車の量も多く都市も活気がある割に、ひどいダートがあったり渡し船で渡る川が2カ所あったりと道路は意外に整備が進んでいない。しかしロシア製の車が少ないせいか都市の空気は他よりはるかにきれいである。

ガソリン事情

   ガソリンスタンドでは76オクタン、93オクタン、軽油が売られている。田舎では93オクタンが手に入らないことも多い。シベリアでは76オクタンすら入手困難な地域もある。ここでは日本車も76オクタンを入れている。しかし絶対に全開にはしないらしい。我々もここで76オクタンを使用したが、泥湿地帯走行時を除きノッキングの発生は無かった。ガソリンの色や臭いは地域により異なる。(赤か黄色か緑)購入システムは独特で、窓口でガソリンの種類と何リットル買うかを申告し非常に小さな窓を通して金を払う。(防犯の為)給油機のボタンを押すと申告分だけ出てくる。余るともったいないので少な目に申告する必要がある。93オクタンはモスクワ付近で1800ルーブル/L、東へ行くにつれ高くなり、ウラジオストクで2600ルーブル/L(5000ルーブル=100円ぐらい、97年夏)。極東でガソリンが高いのは、タンカーナホトカの事故の影響もあるのだろうか。

自転車事情

   モーターサイクル同様ポンコツが田舎で見かけられる。都市部では空気は悪いし、盗難の危険が高く置く場所がないので普及しにくい環境である。ウラジオストクではロードレーサーで練習する集団を見かけたし、ツールドフランスではロシア出身のスプリンターも活躍しているが、ヨーロッパのような庶民のスポーツとはほど遠く自転車の絶対数は少ない。モスクワには会員500人を誇る自転車クラブがあるそうであるが、我々は殆ど見かけることはなかった。極東でロシアを横断中で50歳過ぎのモスクワ市民の男性に出会った。同じ自転車乗りとしては大変嬉しかったし、なにより暗い印象のロシアにも夢を持った勇気ある人がいることが分かって嬉しかった。

地下鉄事情

   ペテルブルグで地下鉄に乗ったが、特筆すべきはその深さである。速いエスカレーターで5分以上地下に下がる。戦時にシェルターとして使われるらしく、構内撮影禁止。運賃は安く、1回50円位だったろうか。駅によってはホーム側にもドアがあり2重ドアになる。車内では駅の手前で必ず3秒くらい電気が消える。日本では見れなくなった席の譲り合いが見られる。

シベリア鉄道事情

   我々が乗ったのは旅客列車ではなく郵便列車であるが以外と速い。車掌が貨車ごとに乗っており、止まる田舎の村々で都会の食料品などを売り、田舎で仕入れた物を都会で売る、という内職をしている。貨物列車は50両以上のものなど珍しくはない。広義レールの複線である。駅員は女性が多い。

路面電車事情

   大きな都市には路面電車が走っている。運賃は1回40円位で、車掌から切符を買う。運転士は女性が多い。ボディーは西側製品の広告塔になっていることが多い。レールの廻りのアスファルトは凸凹で、整備されていないことが多い。本数は多く、地下鉄と並ぶ庶民の足である。

タクシー事情

   1度だけ乗ったが、メーターはなく値段交渉が必要。普通の車、いわゆる白タクが殆ど。料金は相乗りの場合人数分とられる。道端で手を挙げていると小遣い稼ぎに誰かが止まる。よってこの国ではヒッチハイクは不可能。

フェリー事情

   極東のブラゴベシェンスク、ハバロフスク間では2箇所パローンと呼ばれる渡し船に乗らなくてはならない。一つはハバロフスクの手前のアムール川で、1時間に1便位の割で出航する。現在橋を建設中。

   新潟、富山〜ウラジオストクに2週間にT往復の割でロシアの客船が夏期のみ就航している。片道4万円、モーターサイクルはクレーンでの積み下ろしを含め2万円。我々は船の積荷に関する税金で新潟港で船会社ともめた経緯があり、モーターサイクルの書類上の積荷の形態には注意が必要。新潟まで2日間の旅。船内には日本車輸入の手続きに関する張り紙もあり、客船というより輸送船という感じを受けた。乗客も少なく客船としては大赤字であろう。

飛行機事情

   今回は利用していないが、以前アエロフロートでヨーロッパへ飛んだとき、古い機体、寒い機内、ぬるいビール、壊れた座席に感心したことがある。モスクワ経由の場合一晩相部屋の牢屋のようなホテルに監禁される可能性有り。安さだけがとりえ。空港はどこもまるで廃墟のようである。

言葉

   地域によってはロシア語ではない言葉も聞くことが出来るが一般に皆ロシア語を使いこなす。驚くべき事に方言はほとんど存在しない。過去に中央政府が役人を全国に散りばめたことが原因の様である。当然英語は通じない。ロシア文字はアルファベットに似ているので発音できそうな気がするが実際は全然異なる。面白かったのは名詞が活用することで、例えば会話の中でヤマハはヤマヒ、ヤマヘ或いはヤマハミ等になる。

食糧事情

   食事はほとんど道路沿いにあるカフェと呼ばれる食堂で取ったが、意外なことにまずいものは少なかった。肉料理が中心でパンが主食である。メニューの数は乏しい。ボルシチと呼ばれる赤いスープ、シャシリクという串焼き肉(羊肉のことが多い)などが有名である。ス−プを頼むと韓国製のカップラーメンが出てきたこともあった。中国同様やはり日本人のデリケートな腹の受け付けない食事や水も存在する。生水飲用はもちろん、歯磨きの際の水も時には危険である。食堂の飯代や食料品店での買い物の値段は、国の経済状況を考えると非常に高い。夕食代は1000円ぐらいはかかっていた。故にロシア人は祝い事の時以外あまりレストランを利用しないそうである。

   ロシアの家庭では、我々が客だったこともあろうがとにかくすごい量の酒が出てくる。シャンパン、ウォッカ、ビールとあるがやはり主役はウォッカである。注がれた酒、栓を開けた酒は全て飲み干すのが礼儀で、日本人は余程の酒豪でない限り彼等にはついて行けないであろう。酒は味わうことより酔うことに重点が置かれており、鼻をつまんでウオッカを一気に飲み2人で互いに頭を振り合うという馬鹿げた事をする人もいるらしい。昼間から酔っぱらいは多い。ウオッカは良いが私の飲んだ限りビールはとにかくまずい。おそらく世界で一番であろう。ビールを冷やすという習慣はない。アルコール度だけは高いので酔うことは出来るが、瓶の底にゴミが溜まっていることもあるので注意が必要だ。

   食料品店はどこも小さなものばかりだが、大都市であれば探せば大体のものは手に入る。コカコーラやスニッカーズなど西側の商品も少なくはない。

宿泊事情、住居事情

   ロシアでは現地の方の好意で4回ほど泊めていただいた他は、ホテル、モーテル、テント、またペテルブルグではメンバーでロシア在住の菅原君のアパートにあがらせてもらった。テント泊は基本的にロシア国内では認められていないが、後半はほとんどキャンプであった。テントやバイクが人に見えない場所を探すのも一苦労であるし、場所によっては、特にシベリアで蚊の大群がいるところもあるので注意が必要である。

   基本的に現在ロシア国内では我々のような自由旅行は認められておらず、本来であればビザ申請時に宿泊先ホテルと日時の予約をしなければならないはずなので、法の網をかいくぐった我々はホテルなどに泊まるときは交渉する必要があることもあった。断られたこともあれば日本のパスポートの威力で条件付きで泊まれたこともあった。この国にはシベリア鉄道以外バックパッカーはほとんど存在しないので、安宿も少ない。安宿もなんと1泊1500円ほどは覚悟しなければならなかった。宿には各フロアごとに管理人がいる。シャワーの湯はほとんど期待できず、トイレは汚く便座がないことも多く、紙は当然あるはずがない。

   田舎の家の便所は大抵外にあり、戸を開けると地面に穴が掘ってあるだけでありその汚さには閉口する。大抵の家の玄関は二重三重ドアになっており治安の悪さを伺わせる。都市には一戸建てはほとんど存在せずアパート群が立ち並ぶ。その代わりに、やはり社会主義らしく、小さな小屋と狭い庭のある別荘が碁盤の目のように並ぶ別荘地帯が郊外に広がっている。家庭菜園を楽しむ人もいる。ロシアの都市は、計画経済の産物の為か、どこの都市も代わり映えがしない。シベリアのど田舎の都市にさえ、他と同じく無機質で暗いイメージのビルが見られる。

治安について、交通警察について

   アパート群やホテルの近くには必ずスタヤンカと呼ばれる有料駐車場があり、金持ちもそうでない人も大概利用している。周りは高いフェンスで囲まれ銃で武装したガードマンが24時間体制で管理している。路上に駐車中の車にもかなりの確率で盗難防止装置が取り付けられており、犯罪の多さや防犯意識の高さを伺わせる。我々も都市では一泊500円という法外な料金を払ってこれを利用せざるを得なかった。

   事前の情報でも現地の人からも治安の悪さを指摘されていたが、我々の注意深い行動、或いは運のおかげか特に危険を感じることはなかった。特に夜間が問題で、山賊の出没するらしい地域もあったが、気が付いたときには通過していたという幸運も味方した。未明や日没後の走行の機会もあったが、マシンガンと迷彩服で武装した警官の立つ検問もあり、緊張感が漂っていた。心配していたシベリアのヒグマには会うことが出来なかった。村の近くで3mのヒグマを捕らえた写真も見せてもらったが、最近は餌を求めてモンゴルへ南下しているらしい。シベリアでは暖をとる為でもあったが、テント近くでたき火をした。

   事件を扱う警察とは別にガイと呼ばれる交通警察が存在し、全ての都市の入り口と出口に検問所を構えている。我々が通過した検問の数は100はくだらなく、止められた回数は到底数え切れない。1日に7回止められたこともあった。パスポートやビザ、車の書類の確認もあるが、我々のバイクが珍しいため興味本位で止められることが非常に多かった。どこから来てどこへ行くのか、ロシア語は喋れるのか、旅の目的、バイクの値段、タンク容量などなど質問されることはいつも同じなのでいくつかのロシア語の応対は自然に身に付く。彼等は邪魔者以外の何者でもない。時速40Km/hで走っているときに止められ、70Km/hを表示したスピードガンを見せて罰金を要求したり(予め表示はセットしてある)、してもいない安全地帯浸入のケチを付けてきたり、ビザの不備もあったが何十分も何時間も足止めを食らったことも1度や2度ではなかった。その度に菅原君はロシア語で私は日本語と英語で彼等と戦わなければならなかった。もちろん本当に違反をして捕まったり、捕まっても言葉が分からないふりをして根比べの末釈放されたりもした。次第に我々は検問の手前では訳もなく緊張し、トラックの陰に隠れたり視線を合わさないようにして通過するといった技術を身につけるようになった。我々に対する励ましのこともあるが、対向車はヘッドライトでねずみ取りを知らせてくれる。ガイの本来の目的はソ連時代、都市間の人々の移動が制限されていたときの監視役であったそうだが、今となっては流通を妨げる障害でしかないように思える。人々も彼等を嫌っており、給料の支払われない教師に次ぐ子供になって欲しくない職業だそうである。

軍隊について

   若者には2年間の兵役がある。我々が田舎で会ったある少年は、行きたくないから日本へ行く方法はないかと真面目に聞いていた。町には古いミグ戦闘機や潜水艦や戦車などが飾ってあり、濃緑色の古い車が現役でたくさん走っていることもあり、私の頭の中では白黒の大戦のイメージが色が付いた現実のものとなる。3ヶ所で基地を見たが、古そうな施設やトラックと現代のレーダーやヘリが混在する不思議な光景であった。軍港ウラジオストクでは3隻の大きな戦艦と病院船を見かけただけであった。潜水艦は確認できなかった。バイカル湖畔には戦車の払い下げが、不整地用の災害救援車として停めてあった。

経済、産業について

   1$=5800ルーブル位で安定していた。西ではマルク、極東では円の両替が出来るところもあるが、断然ドルのレートが有利。ロシアではニューリッチという言葉が表すように都市部で成金が増えている。街を歩けばそれを実感できる。ロシアというと物不足を連想するが大都市では恐らく金さえあれば何でも手に入るように思える。土産にストッキングという話は現実のものではない。確かに生活は遥かに質素であるし、買い物のシステムに配給制の名残が見られるが、物不足による悲壮感までは感じられない。ペレストロイカは貧富の差をも生み出している。シベリアである女性曰く、ロシアの生活は後退しているそうである。社会主義制度、習慣の色濃く残る中での経済改革は矛盾だらけで混迷を深めている。 最後に極東で思った事を含め9月9日の私の日記より抜粋する。

   手続きはいつも面倒だ。いい加減なことばかりの国なのにどうでもいいところで妙に形式張っている。おかげで昨日は1日つぶされた。役所には日本の中古車を登録しようとする人があふれ、外に出ればでかい態度で日本車を運転する人であふれている。彼等には物を創造しようとする意欲はないのだろうか。優秀な技術者達が外国へ行って活躍するのも当然だろう。技術者は評価されないらしい。ここでは日本車に乗る人が成功者なのだ。彼等の仕事、日本車などの輸入によって儲けるような生産性のない仕事が人々の憧れなのだ。極東、特にウラジオストクは西に比べて栄えているように見える。しかしこれは日本人の捨てた噛みかけのガムがもたらした物であろう。それでも彼等はいくらかの代償を払わねばならない。それが木材であったり天然資源であったりするわけである。当分先のこととは思うが、それらが尽きたときに彼等はどうするのだろうか。それでもプライドの捨てきれない彼等はでかい態度で日本に援助を求め続けるであろう。日本の政治家にそれを断る勇気を持った人はいないであろう。噛みかけのガムを商売にしている業者、ルートがあることも残念だ。そしてガムを最後まで噛まなくなった日本人もどこかで道を間違えたのかもしれない。人間は1度文明を知ってしまったら後ろには決して戻ることは出来ない。それは経験上分かっている。マダガスカルの首都では多くの人が靴を履いていなかったが、アスファルトで埋め尽くされた日本で何人の人が裸足の生活に耐えられるだろうか。極東でのこの見かけの反映は彼等を不幸に導いているように思えてならない。極東にアラスカで見た夢を求めていたが全くの期待はずれであった。夢を持たない人が想像より多く住んでいること。ゴミの散らかり方、割れた瓶の破片の散乱している様はひどい。昔行った中国を連想させることもあった。車のマナーの悪さも中国並である。彼等は日本人や外国人に興味があるというよりむしろ我々のバイクに、日本車に、外国製品に興味があるようだ。明らかな違いは活気のなさである。中国は自転車の往来が多く物売りがあふれ、皆あくせくと働いていた。ロシアは自転車やバイクは極端に少ない。街はどこも殺風景で暗い建物の中でひっそりと商売をしている。売ろうとする意欲はあまり感じられない。民族による違いもあろうがロシアは未だに本家本元の社会主義の影響が色濃く残っている証拠ではないかと思う。ソ連時代彼等は働いても働かなくても給料は変わらなかった。労働意欲を失ってしまうのも当然だろう。それを引きずっているのが今のロシアだ。ペレストロイカ以降ある賢い者は手っ取り早く外国製品を輸入したりして金持ちになった。しかし物を創造するには遥かに多くの労力と資金が必要である。西側製品とすぐに競争できる物を作るのは難しい。物の流通は非効率きわまりないし、労働意欲のない人々によって高品質の物を大量に作ることは不可能だ。話によるとペテルブルグにあるハンバーガー屋では、はじめフィンランド人スタッフが運営し徐々にロシア人従業員を増やし働き方を見まねで教えたそうである。彼等は働くときは働くが、働かない日が多いので仕事量にムラが出来、仕事の正確さを欠いていたそうである。ロシア人自らの手で自らの物を作る彼等自身の文化が開花するのはまだ先のことであろう。今の一つの国であり続ける限り恐らく難しいのではないかと思う。

 感想、(間瀬)

      小杉さん、三上さん、アチャルビスさん、ローランドさん、......名前を挙げたらきりがありませんが、彼等の協力無しにはあれ程までに楽しく素晴らしい旅にはならなかったことでしょう。そして誰よりも至らない私と2ヶ月間を供にしてくれた二人に感謝しています。
 山本さんは、クラッチが壊れたときほど心強く思ったことはありませんでした。クラッチシューをヤスリで削り落とすなんてどこのヤマハ社員が知っているでしょうか。彼の気の長さは3人のまとまりには重要な存在でした。
 幸か不幸か2ヶ月ずっと一緒のテントだった菅原君。クールガンで事故に巻き込まれ警察に2日間拘置されたとき、シベリアで違法に郵便列車に乗せてもらうよう車掌と瞬時の交渉したときなど彼のロシア語抜きには切り抜けられなかったことでしょう。
 将来3人が顔を合わせる度に酒を飲みながら思い出を分かち合えるであろう事は最高の幸せです。

      ロシアでは交通警察、道路、都市の空気、くだらない手続きの事、中古車輸入のことなど嫌なことも辛いこともありましたが、モスクワでオクサナさん一家に歓迎してもらえたこと、道中道を案内してくれた人々、特に印象深いのがシベリアでの毎日で、たくさんの人のお世話になりました。彼等は我々のバイクではなく、一人の人間としての我々を受け入れてくれました。シベリアは最高でした。鉄橋渡りを教えてくれたおじさんもはじめは疑っていたけれども実にいい奴でした。川渡りのために我々の為だけに遠くまでダンプを出してくれた工事人達。ある村の店主は朝から店を閉めて素晴らしいパーティーを開いてくれました。“お前達は今はいなくなった日本のさむらいだ”と言って歓待されたこと。彼等曰く、“田舎にはまだこんなロシア人もいることを覚えていて欲しい”と。あの親切だったロシア人達を、シベリアでの楽しかった日々をいつまでも覚えていたいと思っています。

       当初の目的の1つであったロシアの自走での完全な横断はシベリアの湿地帯に阻まれ実現できませんでしたが、恐らくあそこまで行けたのは我々が初めてだろうと思うし、夢を持った人が少なくなった日本のサラリーマンの中で2人の現役会社員が自社製品を使う側になって夢を叶えたという点にも意義があったかなと思っています。
 我々は遊びに関わらず、1度しかない人生を1日1日悔いの残らぬよう精一杯やりたいと常々考えています。今回の冒険が皆さんの夢の参考になれば、一人でも多くの人が夢を持つきっかけとなれば望外の喜びです。ありがとうございました。

                    1997年11月    間瀬 孝

感想、(山本

        
  オートバイが好きな僕にとって、全く痛快な夏だった。朝起きてから日が沈むまで、見知らぬ土地を頼りになる仲間とオートバイでひたすら突き進む、これが約五十日間続いたのである。

      改めて手元の汚い世界地図を眺めると、我々の旅の軌跡が遥かイタリアから日本まで続いている事に自分でも少々驚き、またちょっと誇らしい気持ちにもなる。僕らにしか分からないエピソードがぎっしり詰まっているこの一本の線が、今回手に入れた宝物の一つである。

      鉄道でも四輪でも無く、サポート無しのオートバイによる旅だからこそ、道中の印象は思い出深い。大陸を疾走するあの感覚、次々と過ぎ去っていく色々な風景、道中出会った様々な人達を思い出す。また、様々な困難と、これらを解決した時の歓喜、時にはしばらく眺める事も出来た素晴らしい風景、不思議な光景、大変な親切や歓迎なども思い出す事が出来る。もちろん多少の不愉快な出来事もあった。これらは毎日次々と現れ、僕らを楽しませてくれた。そして、見知らぬ土地でのちょっとした緊張感。旅の残り時間とのスリリングなレースも全く愉快だった。
 季節も変わった現在、僕らが見た景色はどの様に変わっているのだろうか?親切にしてくれた人達は今頃どうしているのだろう?


 
今回最も僕の印象に残ったものは、実は二人の素晴らしい仲間であった。間瀬の瞬間的な判断力、集中力、決断力、行動力は、困った時に何度となく幸運を強引に引き寄せた様に思える。本当に大した奴だとしか言いようが無い。菅原のロシア語とロシアでの経験は、難しい交渉・煩雑な手続きにおいて素晴らしい威力を発揮した。何しろ大変パワフルな連中であり、僕は実のところ、のんびりと彼等二人の活躍を楽しんでいただけである。

          ロシアの印象の全てを一つ一つここに書く事はとても不可能だが、基本的な印象は「ロシア事情」に間瀬がまとめたものと大方同じである。オートバイによる貧乏旅行ではこの国の実状が本当に良く分かる。西から東まで、一般的なロシア人と同じ目線の高さで直接見ることが出来たが、現在のところ素晴らしい国とは言い難い。帰国後菅原が「愛すべき愚国」と書いていたのが印象的だった。しかし日本にしても、今回通過した欧州各国と比較すれば、随分歪んだ奇妙な国に見える。これらについては、機会があればもう少し詳しくまとめたい。

      この企画の最初から旅を終えるまでの間、大勢の人達と出会い、大変な支援や歓迎、親切を受けた。これらは忘れる事の出来ない素晴らしい思い出であり、旅の経験自体に匹敵するもう一つの宝物である。御支援、御協力下さった方々、そして二人の仲間に深く感謝します。

                          

     個人的回想
 旅を振り返って、すぐに思い出す事をざっと列記する。僕ら3人以外には何の事だか分からないだろうが、僕らがこれを読めば、すぐにその光景が頭に浮かぶ。これが僕らの共有財産だ。

        ベルガルダでの慌ただしい車輌準備。ACERBISさんの大変な歓迎。スパゲッティ。スイスの峠道。全開で走ったアウトバーン。BURG KATZ、小杉さん、北出さん。ビール。ヘルシンキでのビザ手配。フィンランドの朝靄の森の中での日の出。ロシア国境のゲート。AK47。サンクトペテルブルグからモスクワへ日の出前の滑走路のように広い道を真っ暗な中走った。ГАИ(ガイ)の不良警官達。オクサーナさんと御両親。カザンでは空がこぼれてくるかの様な下降気流、それに吹き付ける雨。荒廃した農村。夜間雰囲気が悪かった多くの地方都市。交通事故の関係者になり足止め。カザフスタンのカフェの兄ちゃん。珍しく落ち着いた都市、オムスク。ダートを疾走。浮き砂利の中でフロントが大暴れして転倒。日程が苦しくなり、だんだん鳥目になって夜目が効かない中で真っ暗な道をふらつきながら走った。雨の中のパンク修理。ガソリンの入手に苦労した。夜中に泥溜まりに突っ込み泥だらけになった。物流のとぎれを感じたイルクーツク手前の長いダート区間。「HERO YOU!」と言ってくれたキルギスタンのおじさん。針葉樹林帯に入った!イルクーツク!初対面の人にデオドラントスプレーをプレゼントされた。「プラスティーツェ!」と叫ぶ菅原。道端でシャシリク焼いてる煙。疾走してくる日本製中古四輪車の集団。草の生えた丘が続くモンゴル風の景色。ガソリンが手に入らない!一台当たり60Lのガソリンと食料、水、荷物を縛り付けたオートバイの重さ。荷物の重さでリヤフレームが少しづつ壊れていく不安。76オクタンのガソリン。大きな水たまりの続くダート。川渡り。鉄橋渡り。ウラルに乗ったおじさん。枕木の上を荷崩れ、パンクしたまま走った。建設中のチタ−ハバロフスク道路を疾走。工事用大型ダンプの背中に乗っての痛快な川渡り。焚き火。満天の星空。ウォトカのコーラ割り。ペットボトル入りの不味い合成ジュース。ズベガでの暖かい歓迎。親父さんの得意料理、チャイ、ウォトカ、諸々の御馳走。水たまり、わだち、コブだらけの道、転倒。ひたすら前進する間瀬。調子の悪くなったGPSでなんとか現在位置確認。川渡り。泥沼、泥沼、泥沼、泥人間、泥オートバイ、泥荷物。ジェリカンに穴が空いて20Lのガソリンを失う。当てにならない道案内。泥沼、泥沼、泥沼。クラッチトラブル。黒焦げになったクラッチ。久しぶりのシャワー。国営食堂の不味い夕飯。下痢。モゴチャ駅でのオートバイ列車積み込み!貨物列車から見た湿地帯、悪路。ウォトカを売りさばく車掌の内職。砂埃で前が見えないダート走行。久しぶりに補給できたガソリンスタンド。砂埃で完全に視界が無いのに5速全開走行。自転車でロシアを横断しているおじさん。日系三世の青年。コカコーラ。日本車だらけ。アムール川の渡し船。カフェ「ナターシャ」の美味しい料理。蚊の大群。不完全な査証の為警察と揉める。酔っぱらい刑事の招待。レオーネのスタック脱出手伝い。検問をトラックの後ろに隠れて通過。ウラジオストック!港、軍艦、フェリー。EXPRESS誌の女性記者。船員ホテル。手続き、交渉、手続き、交渉、手続き。とにかく出国成功!アントニーナ・ネジダノワ号。新潟港。通関に丸一日。菅原家での久しぶりの日本食。日本のヤマハへ。
                          1997年11月   山本 達郎