|
お稲荷さんの作業が終わると、彼女の言うところの“私の高級車”でご近所の家にご飯を食べに行く事になった。彼女の車は30年前のニッサンローレル。確かに当時は高級だった車だ。“遠くには行かないから”と、ナンバープレートも無く、“この車はコツが有って私にしかエンジンかけられないのよ”と、のどかなオキナワ第2村とは言えここはボリビアなのにいつも鍵は挿したままだ。
食事に呼ばれた先は小学校に案内してくれた彼女、井上真美さんの家。真っ暗闇のドロドロの酷い道にはホタルが飛び交っている。突然闇の中から大きなトラックが姿を現す。タイヤが半分泥の中に埋まって動けないでいる。ヘッドライトに映し出される前に大声でトラックの作業員達にきびきびと指示を飛ばし、引っ切り無しにかかって来る携帯電話に声を荒らげている男がいた。合間を見て僕が日本語で挨拶をすると、急にスペイン語から静かな日本語に変わり“俺、逆光で顔が見えないんだけどさ”と言って握手をしたのが真美さんの旦那、井上洋一さんだった。
彼は大きな水田を持っていて今が収穫期で忙しかった。しかも洪水の影響で収穫を急いでいて、需要が逼迫する中での何十台ものトラックの手配や、収穫後直ぐに精米しないと質が落ちるからと米を載せたトラックがぬかるみであちこち立ち往生するのを救出しなければならず、寝る暇が無い忙しさだった。しかしそんな合間を縫って刺身料理を振舞ってくれたり、翌日真美さんの実家の諸味里家に僕を食事に招待してくれたり、5日間のオキナワ第2村滞在中に何度も井上ファミリーに美味しい料理と酒をたらふくご馳走になった。“タカシ、遠慮するなよ。ビール未だあるか?この分じゃ当分道路の水も引かないからな、メシの心配は要らないからしばらくここに居ろ”そう言い残して銃を持ってトラック救出に出掛けたまま朝まで帰らない日もあった。平和ぼけした日本ではあまり見かけない相手を射抜くような鋭い表情は飾りではない。平和に見えるオキナワとは言え、日本に比べれば危険がどこにでも存在するボリビアの中で腕一つで家族を守る生活で身に着けた強くて格好良い意思のある男の顔だ。
信子さんの学校ヌエボエスペランサ校には日本の沖縄県からの派遣教師が勤めている。国としてではなく沖縄県とオキナワが今も絆で結ばれているというのが興味深い。ブラジルにも県人会と言うものがあって、それぞれの出身県別に繋がりがあるけれども、中でも移住者の多い沖縄県人の結束は際立っているように感じる。琉球王国の翻弄された過去、沖縄戦での日本軍との悲惨な歴史は彼らの血の中に琉球人としての誇りを際立たせているのだろうか。沖縄から来た旅行者で、自分のことを“日本人ではなくて琉球人です”と言う男がいたと聞く。僕も日本では長年親しんだ静岡県の遠州地方への愛着を込めて“僕は東京人ではなく遠州人です”と人に言うが、僕は遠州人であると同時に日本人でもあるという意識があるから彼の意識とはかけ離れている。
派遣教師の比嘉悟先生も沖縄への情熱と誇りを持った魅力的な男だった。ある晩洋一さんの家に集まり酒を飲んだ。洋一さんは皆の兄貴の様に慕われている。洋一さんの仕事仲間のヒロ君や信子さん、比嘉先生、それにもう1人の若い教師朝陽(トモヤ)先生が集まった。比嘉先生は赴任して1年にしかならないが洋一さんに対してズバッと辛口のコメントも躊躇しない。例えば教育の事だったり村の人間関係の事だったり。気の長くない洋一さんはそれに対してちょっと怒って反論もする。でも2人の間には水面下の信頼関係が見える。それは洋一さんにも比嘉先生が真剣にオキナワに向き合っているのが伝わっているからだろう。
比嘉先生得意のギターを伴奏に夜空の下で皆で日本の少し古い歌謡曲を歌い続ける。比嘉先生はボリビアに来るためにわざわざ少し古めの楽譜をたくさん用意している。ボリビアの彼等は僕よりも余程日本の歌を知っていた。日本の心も僕以上に持っているかもしれない。
この村では他にも印象に残る色んな出来事があった。JICA(国際協力機構)の農牧技術センターを訪ね、副次長の深澤さんにわざわざ時間を割いていただき会議室で説明を受け、センター内を車で案内して頂いたりもした。出会った全ての人に感謝の気持ちで一杯だ。
日本語での教育があり、日本の技術協力もあり、日本人の心を持った人達の居るボリビアの中の日本、いや沖縄か。その心の絆は今日本の日本人が失いつつある当にそのもので、その美しさを再認識するとともに、それを持続することの大変な努力、難しさも彼等に教えてもらった。
比嘉先生のサイトhttp://torutoru.blog.ocn.ne.jp/surokinawa/2008/03/index.html