玉ねぎと高地テスト


彼等に案内された宿は案内されなければ絶対にわからない村外れの道路から少し入った部落の中にあった。土壁の貧しい家の中の一つだった。宿は昔家族が多いときに家として使っていた建物を貸しているだけで外からは宿である事を示すものは何も無い。家の中には昔の家族写真が飾られているのだが、白黒写真の上から色を塗った絵のような写真だ。宿泊料はなんとたったの10ペソ。彼らと居間でくつろぎ、心も体も温かい夜を過ごした。年齢は近いし同じバイク乗りだから言葉の疎通以上に彼等を理解したし、彼等も僕に夕食をふるまって歓迎してくれた。

 翌日彼等と共にここから西に向かったチリの国境へ日帰りで氷河を見に行く事にした。その氷河のある国境の標高は4779m。今までの最高3200mを大きく越える。この旅ではボリビアで5000m以上の山岳地帯を走る予定にしていたし、これまでの状況から何かの対策は必須だったからバイクの事前テストのつもりだった。標高が上がると酸素が薄くなるのでキャブレターエンジンの場合は空燃比(空気質量と燃料質量の比)が下がって調子が悪くなる。エンジン回転が不安定に落ち込むので、ギヤを落としてエンジンの回転を上げ気味に維持しないと前に進まない。

 もうそろそろ時効なので白状すると、昔バイク仲間と富士山の自衛隊演習所の中を密かに通り過ぎ立ち入りが禁止されている火山灰の斜面をバイクで登って走り廻ったことがある。回転を上げすぎて僕のバイクだけピストンが焼きついて途中で動けなくなってしまった。他の仲間は600ccだったけれど僕だけ125ccだったのでエンジンの負荷が大き過ぎた。そんな経験からも、3000m以上の標高は僕のバイクの限界を超えているのは分かっていた。

 通常はキャブレターのセッティングを変えて燃料を薄くするのだが、ジェットと呼ばれるセッティング部品は持っていなかった。ニードルという部品の位置を変えて調整する手段もあったが、このバイクは調整できる構造ではなかった。標高差の少ないブラジル向けにホンダのエンジニアが選択したのだろうか。

 フェルナンドが“山に備えて玉ねぎを買いに行こう。”と言う。山の上で料理をするのではなく、バイクに食べさせる為だ。何を真面目な顔をして下手な冗談を言っているのかいぶかったけれど、それは高地でエンジンの調子を改善するアルゼンチンライダーなら誰でも知っているテクニックなのだそうだ。科学的根拠が全く不明なので信用できないけれど面白いネタだと思ったので一緒に買いに行った。
 近所の小さな家がスーパーだったのだが、ここもまた外から見たら他と変わらない貧しい家の一つ。多分部落の人以外は来る事もないだろうから看板を付ける必要も無いのだろう。

標高1800mの村を3人で出発しアルゼンチン側の国境事務所に立ち寄り、チリの手前で引き返してくる旨を伝えてパスポートを預けて通過する。標高2000mを越えると道は砂利道に変わり僕のバイクだけ早くも調子が悪くなる。教えられる通りに玉ネギを切ってエアクリーナーボックスの中に入れる。劇的な変化を期待していたけれどもそれは無かった。しかし3000m付近まで困らずに登ることが出来た。
 アコンカグアの横の峠3200mを越えたときは苦しみながらも何もしないで越えられた。路面状態や勾配、気温なども違うから玉ネギの効果があったのか無かったのかは分からない。しかし例え無かったとしても、物もお金も無いアルゼンチンライダー達が試行錯誤してこのアイディアにたどり着いた過程を想像するのが面白いし、努力を信じたい。人参やジャガイモでは駄目で玉ネギなら良かったのか。誰かこれを科学的に証明する事ができたら教えて欲しい。
 もし玉ネギに酸素を多く吸うのを助ける作用があるのだとしたらターボチャージャーと同じ効果があることになるからレースの必須アイテムになり得るし、バイクのチューニング部品としてメーカーから玉ネギが発売されるかもしれない。“俺のは赤玉ネギの微塵切りだから速いぜ!”なんて会話を想像すると可笑しい。
 残念ながら3000mを越えると調子はどんどん悪くなり、4000m近くになると歩くよりも遅くなりやがて止ってしまった。排気量の差はやはり大きい。彼等は問題なく登って行ってしまった。ここで最後の最後にやろうと思っていた奥の手を使うことにした。エアフィルターとエアフィルターの蓋を完全に取り外してしまうのだ。通気抵抗が減るので多くの空気を取り込むことが出来る。反面埃などのゴミをエンジンに吸い込んでしまうリスクがあるから最後の手段だった。これが大成功でエンジンは元気に息を吹き返した。
 アフリカ最高峰タンザニアのキリマンジャロ山5895m、ケニヤのケニヤ山4985mに次ぐ人生3番目に高い標高4779mのアグアネグラ峠(Paso del Agua Negra)に着いた。バイクではもちろん1番だ。日本の最高峰富士山3776mよりも遥かに高いのが信じられない。テストは大成功。これで5000mを越えるボリビアの高地に向かう自信を深めた。

 この国境の道から見える景色も言葉を失うほどの美しさだ。こんな景色の前では信じていない神様の存在さえも信じてしまう。その造形は人間の如何なる尊大な創造物とも比べられないほど堂々として心を圧倒し、包み込んでくれる。僕もバイクも無限な広さを持つ宇宙のちっぽけな点にすぎない。地球を支配しているように勘違いしている人間という愚かな動物に“結局無力な生き物なのだ”という謙虚さを教えてくれているような気がする。