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朝方遠くで人が小さく咳払いする様な音が聞こえた。テントの中で耳を澄ましているとゆっくりと忍び足で近づいて来る気配があった。ドイツ人ライダーからテントを襲われた話は聞いていたし、ホテルで盗難に遭ったばかりだから五感は張り巡らせていた。音をたてないようにナイフを準備して待った。いよいよテントのフライを外から触ってきた。もう一度今度は強く下から上へ触ってきた時に彼の手の動きに合わせて内側からそれを押し返してみた。このまま襲われたら不利だけど、こちらから不意打ちを食わせれば少しは有利に展開できるかもしれないとの咄嗟の判断だった。すると慌ててテントから逃げていくちょっと重めの足音が聞こえた。意外と臆病な強盗だなあと拍子抜けしてテントから顔を出して見ると牛が背を向けてこちらを見ていた。人の手だと思っていたのは牛の舌でフライの夜露を舐めたあとがついていた。何十頭の牛が海岸を移動している最中だった。こんな牛の“襲撃”を1週間後にもまた味わった。
ホッと一息ついてふと昔アフリカのケニア山を登山した時の出来事を思い出した。やはりキャンプしていたのだが、この時はテントは持たず寝袋だけだった。小屋の庇の下で寝ようとしていると地元の人が“ここは夜ハイエナが出るから気をつけろ”と言う。アフリカの百獣の王はライオンでハイエナは残りの死肉をあさるイメージが強いが実は逆のケースが多いことはあまり知られていない。ハイエナは名ハンターなのだ。動物は炎や光を怖がるからということで片手にマグライトを、もう一方にはナイフを持って地面に寝ていた。すると夜中に本当にハイエナが出た。耳元に来た気配で飛び起きてナイフをかざしライトを向けると、死んでいなかった人間に驚いて逃げたのか遠巻きに4つの目玉がこちらを見つめていた。時間の感覚は無かったけれど、マグライトの電池が切れたらどうしようと考えたほどだから相当長い間にらみ合った。結局全ての音や視界をかき消してしまう突然の激しいスコールでノーサイドになった。翌日住人に会うと“よく生きていたな。でもこの先の村まで30km、ヒョウが出るから気をつけろよ”と言われた。しかし森の中の登山道を歩くしかなく、気をつけろと言われてもどうしようもない。運に任せたけれど、やはり1日中雨に降られて守られた。登山道の入り口には行方不明の尋ね人の看板がたくさん有ったから脅しもオーバーではなかったのだろう。
アフリカの経験に比べれば今回の牛の話は全くの笑い話だ。しかし一番怖いのはヒョウでもハイエナでもなく人間。人間との決闘ではなくて本当に安堵した。